民族紛争の傷跡心に深く 
〜黒柳徹子旧ユ−ゴ報告〜

放送日: 1996年6月23日(日曜)
午後2時から3時25分
制作スタッフ:プロデュ−サ−田川 一郎
ディレクター田原 敦子
カメラマン飯田 協子
VE高橋 真一
ナレ−ションスクリプト風小路 将伍
音楽大江 光
ヤドランカ

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破壊された新聞社(サラエボ)
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破壊された図書館(サラエボ)


ユニセフ親善大使の歴史:

1984年 タンザニア
1985年 ニジェ−ル
1986年 インド
1987年 モザンビ−ク
1988年 ベトナム、カンボジア
1989年 アンゴラ
1990年 バングラデシュ
1991年 イラク
1992年 エチオピア
1993年 ス−ダン
1994年 ルワンダ、ザイ−ル
1995年 ハイチ
1996年 旧ユ−ゴ
今回が13回目の訪問になりました。
親善大使は無報酬の生涯大使です。
黒柳徹子さんが12年間に集めた募金総額は
20億6千万円。
訪問国の子供達のために使われました。


世界で活躍する(した)親善大使:

  • ダニ−・ケイ(米映画俳優、故人)
  • オ−ドリ−・ヘップバ−ン(米映画女優、故人)
  • ピ−タ−・ユスチノフ(英国映画監督、俳優)
  • リブ・ウルマン(ノ−ルウエイ女優)
  • ハリ−・ベラホンテ(米歌手)
  • リチャ−ド・アッテンボロ−(英国映画監督)
  • 黒柳徹子(日本女優)
現在世界では5人の親善大使が活躍中です。


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墓地になったサッカ−場
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壁の穴は銃弾の痕(ゴラジュデ)

今回の取材日程:

5月22日〜5月29日


主な取材地:


旧ユ−ゴ−スラビアの現状:

旧ユ−ゴスラビア連邦共和国を構成していた共和国は次の6共和国です。

1991年から分離独立が始まり連邦は崩壊します。最後まで連邦に残ったセルビアとモンテネグロが最後にユ−ゴスラヴィア連邦共和国(新ユ−ゴ)として独立し、5ヶ国が誕生し、旧ユ−ゴは完全に消滅しました

取材スタッフは黒柳徹子さんより4日先行して、上記5ヶ国の内、クロアチア、マケドニア、ボスニアを取材しました。

黒柳さんは、ザグレブ(クロアチアの首都)に到着しましたが、すぐにボスニア入りして、取材はボスニアが中心となりました。

ボスニアの人口構成

国論は二分され、独立派は1992年2月、国民投票を強行し、3月、独立を宣言しました。危機感を抱いたセルビア人がユ−ゴ連邦軍の後押しで総攻撃を開始します。ボスニア・ヘルツェゴビナ戦争の勃発です。

死者15万人(一般市民及び兵士)
国内避難民および難民270万人

旧ユ−ゴ全体では
死者25万人
国内避難民および難民100万人

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旧ユ−ゴスラビア
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独立した国々


ボスニアの現状:

昨年末、和平合意(デ−トン合意)が成立し、戦火は止みました。三民族は合意した地域で棲み分けを始めました。アメリカ軍2万人を含むNATOを中心とした6万人の軍隊が平和維持活動に従事しています。

それぞれのテリトリ−の通行の自由は認められていますが、確実に守られているとは思われません。取材班がドルバルの警察に止められた事件(日本ではスパイ容疑で拘束と報道された)は、それは証明する出来事でした。

この戦争の特長は、民族浄化(エスニック・クレンジング)といい、相手民族を消滅させる事を目的としましたから、残酷です。民間人や子供が殺人の対象になりました。

縫いぐるみや玩具に爆弾を仕込んで子供を殺しました。

親が目の前で殺されるのを見た子供達が沢山います。この子供達の心の問題(トラウマ・心的外傷)はこの国の抱えた大問題となっています。子供に絵を描かせ、心の病気を見付け、治療していく作業は気が遠くなる作業です。(ザグレブで取材)

強姦も戦略の一つとして奨励されたとの噂もあります。相手を強姦して自分たちの民族を増やすという戦略です。

各地の病院には強姦によって生まれ、母親が置き去りにしていった子供が達がいます。


マケドニアのスコピエの難民センタ−で。

彼等はボスニアのゴラジュデからの難民でした。僕らが会った母親と3人の子供はもうここに4年住んでいると言いました。取材班が彼等の故郷、ゴラジュデに行くことを知り、一人でその村に残った父親に手紙を届けてくれるように依頼されました。ビデオも届けることにしてメッセ−ジも収録しました。
4年振りにわが子を見る父親の目は潤んでいました。
「大きくなったな−」子供を見ての感想です。
「シワが増えたようだな」妻を見ての感想です。
自分は戦闘員として敵と戦っていた。
あの山のふもとまで送って行き、さよならを云った。生きていることだけは知っていた」
なぜ呼び戻さないのかという質問に
「帰る交通費がない。帰っても自分に仕事がないから養えない」
戦前は化学工場で働いていたが、その工場は破壊されて、いまは動いていない。

サラエボで。

1984年冬季オリンピックが開催された街は破壊つくされていました。
スケ−ト場は破壊され、隣接するッサッカ−場は墓地になっています。競技場を見下ろすもう一つの墓地で、墓参りをする老婆を取材しました。
戦争の酷たらしさを涙で語ってくれました。

全ての建物が破壊されたといっていいでしょう。
憎しみがあるだけに、その破壊の仕方は筆舌に尽くしがたく、取材班が撮影した映像を是非ご覧ください。
銃弾の打ち込み方もすざましものです。
これでもか、これでもか、と云っているようです。
その他破壊された有名な建物が洩れなく収録されています。
図書館
新聞社
「スナイパ−通り」には、まだ弾よけの土嚢が積み上げられたままになっています。
「ダダダ!ダダダ!」人々は銃弾の音の途切れるほんの数秒間を腰を屈めて走り抜けたのだそうです。
「あたかもゲ−ムのようだった」
住民の回想です。
攻撃する方も人の生命を玩んでいました。
「今日はあの婆さんの左腕を撃った」
「おれは、買物籠を撃ち落とした」

サラエボは周囲を山に囲まれています。1992年4月5日、この街の周囲に260台の戦車、120台の迫撃砲、数えきれないほどの対空機関砲、狙撃用ライフル、その他の小型銃が登場しました。

何処からでも好きなものが攻撃の対象となりました。

水が不足しました。一人一日2リットルでした。

電気も不足しました。

食料も不足しました。

サラエボの人口が40万。一人10キロ体重が減ったとして、4千トンのダイエットだったと云ったのはサラエボの文化人です。


復興には2億5千万ドルかかると、緒方貞子(UNHCR)さんはいいます。

エンジニア、医者などのプロフェショナルに早く、帰国してほしいと呼び掛けています。